GAME LIFE HACK

ゲーム生活、少し変えてみませんか?

全てのゲームに「難易度選択の実装」を提案する前に、まず自分でしっかり「遊ぶゲームを選べ」って話

画像は関係ない。

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数日前TLに流れてきた以下の記事を読んで、正直的外れな意見だと感じた。
 
まず断っておくが、自分はBloodborneやSOULSシリーズに関しては未プレイである。
だが、歯応えのあるゲームに関してはそれなり程度には遊んでおり、その上で思うところが色々と存在したのだ。
 
なので今回の件について、別に書いてた記事を放り出してでも色々と書かせてもらう事にした。
 

目次

 

 

「難しさ」がウリであるゲームを否定してはいけない

まずそもそもの話として「難易度が高くない」もしくは「難易度選択が存在する」ゲームは既にたくさん存在する。


そういった間口の広いゲームが存在するからこそ、高難易度のゲームが受け入れられているのだ。

 

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グラフィックが特徴の作品がある、キャラクターの可愛らしさが特徴の作品がある、全く新しいシステムが特徴の作品がある、なんでもできることが特徴の作品がある、シンプルさが特徴の作品がある。

 
そして「難しさ」が特徴の作品もまた、存在して然るべきなのだ。
 
 

イージーモードの実装自体は歓迎すべきこと

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「全て」「べき」という断定系もかなり引っかかる文章に感じた。「すべてのゲーム」のすべてという範囲はどこまで適用されるのだろうか?というでも疑問に感じた。
 
誤解しないで欲しいのは、自分としてはイージーモードの存在は歓迎されるべき事で、実際自分は難易度選択存在したら大体まず下げて遊んでいる事が多い。
 
しかしそうでないゲームに関しては「そういうもの」として割りきって自身への腕試しとして遊んでいる。そして同時に「すべてのゲームで難易度選択を実装しろ」という意見には同意が出来ない。
 
 

「難易度を下げる」にも手間がかかる

難易度の調整ってかなり難しい話で、たまに「ただ敵が固くなった」「柔らかくなった」という方向で難易度調整されてる作品のゲームプレイが基準となっている難易度のそれに比べて著しく損なわれているというケースが存在する。
 
ただ固くしただけの「難しくした」、ただ柔らかくしただけの「優しくした」と言った調整で面白さが大きく変化してしまうケースは少なくない。

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また、敵の攻撃頻度や攻撃力がそのままレベルデザインの一部として成立しているケースもある。そして「様々な下準備からの実行」「激しい攻撃をいなしての一撃」「戦略を立てての行動」などの「抑圧からの解放」「問題の解決」によって楽しさや爽快感が得られるケースも往々にして存在する。
 
つまり、面白さを保ったまま簡単にしたり難しくするのは、これらの数値を全て弄るわけで、その為には大変な労力を伴うという事である。

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そもそも楽しさに変化を与えるための難易度選択のハズなのに、優しくしてもゲーム体験が損なわれないという保証はどこにもない。
 
難易度の変化は良くも悪くもゲーム体験に影響を与える。壁を殴り続ける事が楽しいと感じることが少ないように、ただ漠然と数値を下げても面白さが保たれるという保証はどこにもない。
 
また対戦ゲームに於いてもハンディキャップや手合割を実装しながら対戦バランスを保つのがいかに難しいかというのは想像に難くない。

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ハンディキャップを上手い人が利用したらそのまま強い武器として機能してしまうケースも存在するからだ。
 
あって嬉しいものを用意するのに手間がかかるのは基本なのだ。
 

遊びにくいのは本当に「難易度」の問題か?

遊びにくいとはどういう状態だろうか?難しいのは難易度が原因だからだろうか?
 
単純に難易度が難しいという点もあるだろうが、例えば導入が欠如している、難しさの上がり方の調整不足のような「ゲームデザインの作りこみの欠如」難易度曲線の設定が不十分でもクリアできずに離れるわけで、遊び方や戦い方を把握させることができてないという点で問題になっているというケースが存在するのではないだろうか?

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それらは難易度の選択が存在するかどうかとはまた別の話だと思うし、こういった問題を解決する前に付け焼き刃として難易度の調整を加えさせても面白くなる保証は存在しないのだ。
そこを機械的に「イージーモード実装しろ」というのは「魚を与えておいて釣り方を教えない」ようなものではないだろうか?
 
つまりゲームにおいて、難易度選択項目の実装以前に「遊び方や戦いかたの提示・誘導」を促す説明やレベルデザインの構築が必要なのではないかと自分は考えている。
 

遊び手は常に「選択の自由」を持っている

プレイヤーはゲームを遊ぶ前にどういった作品を選ぶ権利を持っている。そして難しい作品、もしくは簡単すぎる作品を遊び続けなければいけないという義務も存在しない。また、難しいゲームが存在するように、カジュアルに楽しめるゲームもまた大量に存在するのである。
 

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そんななか、何か別の考えがあるわけでもなしにロクに調べずにゲームを買うという、自分自身の選択ミスによって自身の理想としてたゲーム体験を得ることができず、それを棚に上げて「すべてのゲームが○○であるべし」と針小棒大に叫ぶのは流石に違うのではないかという話だ。
そんなのはカジュアルゲーマーですらない、ただの大馬鹿なクレーマーだ。
 
特定のソフトを遊ばなくてはいけないという義務は存在しないし、不要な義務感に駆られて自分で遊ぶゲームを選択したくせに、選択したゲームに対してその作品のウリである部分に文句を言うのはお門違いなのだ。市場が求めてるが故に継続している作品なら尚更だ。
 
 

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当該記事は海外記事を翻訳して掲載したものらしいが、特に筆者の考えが後に追加されているわけでもなく、数多ある海外のゲームのコラム記事の中から本記事を選択して翻訳したという事は掲載者は当該記事に対して共感と同意を覚えたという事である。なので今回長々と自分なりの意見を書かせてもらった。
 
個人的に先の記事の問題点は「全て」と「べき」という例外を許さない命令形な書き方。もしここが特定の何かを指した提案であったらいくらか同意の方向に傾いてたであろう。

作り手が難易度調整の実装を選択できるように、プレイヤーもまた遊びたいゲームを選べるのだ。
 

まとめ

・難易度選択自体は「あれば嬉しい要素」
・様々な要素がゲームにおいて特徴となり、難易度もまた大きなセールスポイントとなる
・難易度変化の影響でゲーム体験は変化するケースは存在する
・遊び難さは難易度以外に原因が存在する可能性もある
 
・難しいゲームを「遊ばなければいけない義務」は存在しない
・「『全て』のゲームには難易度選択が存在『すべき』」という意見には同意できない