「物理的自由度」の過剰投与は、ゲームの楽しさを殺すって話
結論の見えてこないオチ無しの記事です
GTAV遊んでいたとき、ふと「このゲームは住人になり切ることを求められ、自分の意志で犯罪行為を起こすのが難しい作品」であると思ってしまった。
というのも本作は自由行動時にメインミッションで行うような行為を自分の意志で行うと、大体の場合で警察の御用になってしまい罰金や病院送りになってしまうのだ。一応避けることも可能なのだがその際は警察に地獄の果てまで追いかけられ何処かに隠れるか車の色を塗り変えるかなどの回避手段をとる必要がある。
よーするに本作は一見、他のゲームより頭一つ悪ぶってる作品なのに他のゲーム以上に犯罪行為に対するペナルティが重く、模範的な悪党になり切る事を求められる作品なのだ。
GTAVはストーリーミッションの楽しさに加え豊富な自由度を謳った作品だ。
実際出来ることは多いしフィールドも広く、ミニゲームやゲーム内コンテンツも多数取り揃えてる。にもかかわらず自由行動で遊んでる際は言葉にできない閉塞感に襲われる時がしばしば存在する。
こう感じるのはなぜなのか、ひいては自由度とはいったいどうあるべきなのかを今回は考えてみた。(結論が出たとは言ってない)
- そもそも自由度とは何だろうか?
- 仮説:「物理的自由度」と「精神的自由度」
- 実際に「選択肢」や「広さ」を与えても「自由度が高く」なるとは限らないって話
- 「何でもできる」は「何にもできない」
- 自由度の幼年期の終わり
そもそも自由度とは何だろうか?
「自由度」をネットで検索すると様々な項目が出てくる。
ある人は「広大な世界が用意されてる」
ある人は「膨大な装備の組み合わせ」
ある人は「豊富な善悪の選択分岐」
ある人は「沢山の攻略ルート」
そしてまたある人は「様々な遊び方の存在」
というようにだ。
しかしこれらを見ていて自分は「自由度には大きく分けて二段階の傾向が存在するのではないか?」と感じた。
それが「物理的な自由度」と「精神的な自由度」のふたつである。
仮説:「物理的自由度」と「精神的自由度」
ではこれらの自由度の違いは何なのだろうか?自分なりに考えてまとめてみた。あくまでこれは自分が考えた末に行きつき定義した説なので、実際のところ、例えば本職の開発者から観たら「なんじゃこりゃ」的な分類に感じてしまうかもしれないことをご容赦願いたい。ご容赦ください。
物理的自由度
物理的自由度とは「マップの広さ」や「選択肢の豊富さ」「選べるアイテムの多さ」などといった数値的に可視化できるようなゲーム内における選択や行動を行うための土台のリソースの尺度である、と定義したい。
見た目で分かりやすいからいくらでも追加しやすいが、闇雲に選択肢やフィールドを増やすと大味になってしまいがちか、逆に最適な攻略手順をプレイヤー側に「思考させて」しまい、精神的閉塞感を与えるリスクが有ると自分は考えている。
精神的自由度
プレイヤーがやりたいと感じるもしくは以上の状況を的確に用意したもの、種類自体多くは用意されてないがハッキリと的確に異なる選択肢を用意するようなものを「精神的自由度」と定義したい。
例えばFALLOUTやTESシリーズで「撃ち殺す」や「説得する」の他に「寝返る」といったもの、もしくはスプリンターセルやHALO3、スーパーマリオ3Dワールドなどに用意されてるような多方向からの移動や攻略アプローチの手段などである。これらはレベルデザインの技術によって出来が左右すると考えている。
つまりこれらは闇雲に広く状況を与えて大味にするのではなく、あえて制限する事によって「自分は様々な攻略経路が存在する」と感じさせることが出来るのだ。
実際に「選択肢」や「広さ」を与えても「自由度が高く」なるとは限らないって話
では物理的自由度だけではどうして「なんでも出来る」と感じにくいケースがでてしまうのだろうか?
例えば実際にオープンフィールドの作品をプレイした時の状況を思い出してもらいたい。プレイヤーはどこにでも行ける、だがゲームを進めるにあたって必要とされる地点は限定されている。
広大なフィールドを用意しても強い動機付けを用意しないと、それらの要素は移動経路や背景以上の意味をもたらさないのである。
こんな経験はないだろうか?
なんでもできることがウリの作品に初めて触れた時、唐突に世界に放り出された用に感じ、何をすればいいのか分からず適当にぶらついて試しに色々やってみたけどしっくり来ることが出来ず、ついにはゲームを積んでしまったことが。
もしくはそういったゲームの攻略法や遊び方、プレイ動画を閲覧し遊び方を把握し自身の行動を規定してから一気に遊びやすくなった、と言った経験が。
自由度の高い作品はプレイヤーにその世界でのあり方を考えさせ、そういった作品の経験が少ないと「何をすればいいのか」と言った考えが「思いつかない」ケースがしばしば発生する。攻略経路を「考えさせすぎる」というプレイヤーの閉塞感は無視できない。
物理的自由度だけが高いとこういったリスクが発生するのだ。
「何でもできる」は「何にもできない」
例えばMinecraftについて話をしよう。マインクラフトといえば広大なフィールドで様々な動物やモンスターを狩り、沢山の手段でアイテムを生成し、好きなように建物や拠点を作成するというのがウリのひとつである作品だ。
そのマイクラの基本モードであるサバイバルモードについて考えてみる。
プレイヤーは初日いきなり世界に放り出され、木を伐採し、作業台を作成し、道具を作り、更に素材を集め、家を作成し、食料を備蓄し、夜に備える。短い1日でこれらを十全に行わないとこの先生きのこりにくくできている。
勿論死亡覚悟でハイリスクな行動を行うことも可能ではあるがいささか難易度が高い。
皮肉にもこれらの「やらなければいけない事」は「このゲームで出来る要素」として喧伝されているものばかりなのだ。
このようにサバイバルモードのマインクラフトはガチガチに計画を練らなきゃ初日を生き延びることが出来ないようになっているのだ。
つまり下手をすれば「出来ること」はすべて「やらなければいけないこと」として牙を剥く可能性があるのだ、趣味の義務化のリスクは大きい。
自由度の幼年期の終わり
今回の記事ではゲーム内のリソースの豊富さからなる「物理的自由度」が多すぎると逆に雁字搦めになる、という話がしたかった。
ゆえにこれからのゲームは意図的に機能や移動を殺してその上でプレイヤーを誘導させる事からくる「制限による自由感」が必要であると感じた。そしてそれを実行できている作品は確実に増えているとも感じた。
「自由度」と「制限要素」、この二つは切っては切り離せない関係にあり、この二つのバランスがこれからのゲーム作品においては大事であると自分は考えている。