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「分かりやすさ」と「カッコ悪さ」の密接な関係、或いは「なぜ洋画のポスターは日本だとダサくなってしまうのか?」という話について

とある洋画のポスターについて、欧米と日本でのデザインの方向性の違いで最近話題になっている。
とりあえず以下のまとめを読んでほしい、米欄は読まなくてもよい。
 
 
結論から言えば、自分としてはこれらポスターは欧米版日本語版のどちらも機能を全うしていると思った。今回はその理由っぽいのをつらつら書こうと思う。
 

 

「分かりやすさ」と「ダサさ」の切っても切れない関係

基本的に「分かりやすい」「伝えやすい」情報というものを追求していくとそれに応じてデザイン性が損なわれやすいのだ。
 
試しにここではフォントを例に挙げてみる。筆記体(毛筆系も含む)、明朝体、ゴシック体、ポップ体。これら四種類の書体で同じ文章を書いたとしよう。
 

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(青空文庫:「夏目漱石 吾輩は猫である」より一部改編の上引用)
 
おそらく筆記体明朝体>ゴシック体≧ポップ体という順番で読みやすく感じる人が多いと思われる。そして見た目の普遍さやいわゆる「ダサさ」も同じような順位で認識されるだろう。
 
分かりやすく情報を加工する、その過程でカッコよさという要素は削り取られ、ダサい情報が人々を認識しやすくさせるのだ。スーパーのポスターがアレだけ情報過多なのに読みやすいのはポップ体という「ダサい」書体をメインに用いることで認識の手助けをしているということだ。
 
では何故分かりやすい情報はダサく、逆に分かりづらさがダサくないといった感情につながるのか?それは次に挙げることにする
 

「カッコよさ」などは「理解しきれていない」と同義

ここで皆さんに最近自分がカッコいい、可愛い、怖いなどと感じたものをいくつか脳内で思い浮かべて欲しい、出来る限りディテール含めてだ。おそらく「あれ?この部分どうだったっけ?」と抜けてしまっている要素が少なからずあることに気付くはずだ、特に普段絵などを描かない人はその傾向が強いハズ。(そうでも無かったらゴメン)
 
特定の感情が喚起されたものなのに細かく思い出すことが出来ない?それはむしろ正常な反応なのである、むしろ覚えきれないからこそその手の感情を抱くのだ。
 
分かりにくい、つまり一目で理解しきれないというのは「カッコいい」「怖い」「可愛い」という感情へと人々を導く。
 
自分自身で再現や脳内再生が難しい上位の概念に対して起こる許容範囲外の情報の流入、それが羨望や畏怖への感情に繋がるのだ。
 
そして何度も見たくなる、そして何度でも繰り返したくなる、そして忘れないように記録する、そして他者と認識や感想を共有するのだ。
 
例えば複雑に書き込まれた瞳を持つキャラクターがかわいらしく見える、それは文字通り「目は口程に物を言う」からである。
例えばとある強烈な映画を見たあと、あまりの衝撃に月並みな感想しか出てこない。それは脳が流入された情報を一時的に処理しきれていないからだ。
例えば恐怖を喚起する見た目、それは得体の知れないカタチだからである。(そしてこれがホラー映画の続編が怖くなくなり、そしてホラー作品のキャラクターが最終的にギャグキャラになってしまう理由の原因でもある)
他にもさまざまなケースで例えることが出来る。
 
ちなみに因みにこれは味覚や嗅覚においても言える事象であり、だからこそただの塩や砂糖で人々が満足せず、企業は様々なレシピや商品の模索を行い続けるのだ。
(たまに企業から妙な味のスナック菓子やアイスが発売させる理由も多分これ・・・だと思う・・・)
 

覚えたら飽きる、覚えきれないから飽きない

もし当該の作品に対して、自分の満足行く範囲で理解しきったものはどうなるか?それが「見慣れる」とか「飽きる」という感情である。
 
つまり「覚えてしまう」は「飽きる」と紙一重なのだ。
何度見ても飽きない作品とは単純に「その事象から得られる情報が多い=覚えきれない」という事なのである。
 

情報のおかゆ

これはなぜダサいと感じるのかという理由の一つでもある。
 
説明過剰な映画のポスター、「情報のお粥状態」とでも呼ぶべきか、自分の脳味噌で咀嚼するという過程がほぼ省かれてしまっているのだ。
 
これでは折角の良い情報もすぐに認識や記憶に到達してしまう。だから飽きてしまう。飽きが早いからありふれたりダサく感じたりする。「情報」が既に「解説」されてしまっているということだ。
 
配給元や広報はそれを「良かれと思って」行っている。だからダサいポスターが生まれてしまう。
 
「分かりやすい情報」ではない、「分かりやす過ぎる情報」なのだ。それは元の作者が作り上げた神秘のベールを剥ぎ取り、内容の種明かしを白日の下にさらすというレベルに及んでいる。
 

生き残るためにやっている

ではこういった加工は絶対的な悪か?それは違う。
 
目に留まる人を増やすために分かりやすく解説するという意味では間違ってない行為なのだ。だが元の作品に美しさを覚えていた人間にとって、それは耐え難い屈辱に感じるのも当然の話なのだ。
 
これが冒頭でも挙げた「元の作品も輸入する際に行われた加工も、どちらも機能を全うしている」という意見の理由である。
 
 

「分かりやすさ」と「見てくれ」を両立するために

カッコよさを重視して情報を良く伝えるためにはどうすればよいのか?不可能なのか?
難しいが可能である。どうすればよいか?
 
ここで考えるべきは安田朗氏が提唱した「絵とは鍵」という概念である。

 

つまり対象とする人間が持っているであろう「情報」を(今回のケースでは)デザインによって引き出すのだ。
 
より詳しい解説は本人のツイートが纏められてる以下の記事でtogetter.com
 
この概念は広告という分野でも生きていると思っている。
見た人の脳内に秘められている情報を引き出す、見た人の脳内で情報を咀嚼させ「?」→「!」の心地よい変化を誘発、ダサくない良い広告とはそれが実現されているのだ。
 
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分かりやすさとカッコよさの両立、それが「デザイン」という作業において目指すべき目的のひとつなのだと僕は考えている。
 
 
あ、因みに「海を渡るとデザインがダサくなってしまう問題」としては日本の作品が海外に渡った際にも似たような現象が起きてたりする。ゲームのパッケージとか